平野玲音          HOME

◆レストランでのファンの集い

  12月初旬、1ヶ月余りの日本滞在を終え、ウィーン行きの飛行機の中で筆を執っています。隣の席では、全てのスケジュールを立派にこなしてくれた相棒のチェロがすやすやと眠っています。到着後すぐに原稿を送らなければならないため、今回は「ウィーン便り」を離れ、5回の帰国公演の様子をご報告したいと思います。
  11月9日(日)、広尾のレストラン「シェ・モルチェ」にて、平野玲音ファンクラブの初めての「ファンの集い」が開かれました。チェリストの両親に賛助出演してもらったミニ・コンサートは、小さなお子さん連れのお客様も大歓迎。
  フランス料理のビュッフェに舌鼓を打ちながら親睦を深め、ザッハートルテやミニチュア・ヴァイオリンなどの豪華賞品(?)が当たるビンゴで盛り上がりました。
  11月15日(土)は、今回唯一の地方公演となった「ちちぶびいどろ美術館」でのコンサート。江戸時代の民家の一室が洋風のホールに改装されており、開演前には風情ある館内を回って、薩摩切子などのガラス工芸品を鑑賞しました。
  日帰りの短い訪問ではありましたが、鮮やかな紅葉に彩られた車窓の眺めも素晴らしく、久しぶりに日本の美で心を満たすことができました。
  11月22日(土)は、永福町の室内楽ホール「ソノリウム」で、ピアニスト佐藤由里亜さんのコンサートシリーズにゲスト出演しました。ウィーンでは音の対話が重要視され、イーベラー先生が最初に下さったご助言の一つが「室内楽をたくさんやりなさい」だったほど。交響曲や協奏曲、オペラといった他のジャンルも(規模は異なるにせよ)「室内楽的」に演奏されているように感じます。
  音が低く柔らかいチェロを気遣いつつ二重奏を作り上げることは、ピアニストにとって楽な作業ではありませんが、音色や表現を近付け、互いの音楽性を尊重し合って一体になるのは、ソロでは味わえない至福の喜びです。日本でもより多くの方がその魅力を知って下さることを願っています。
  11月28日(金)、新大久保の淀橋教会でのリサイタルを、敬虔なバッハの《無伴奏チェロ組曲第2番》で始めた……ところまでは良かったのですが、ショパンの《〈悪魔ロベール〉の主題による大二重奏曲》について、お客様から「教会で悪魔とは挑戦的な」と突っ込まれてしまいました。(元になったマイヤベーアのオペラは、悪魔の企みに愛が打ち勝つというハッピーエンドなので、神様どうかお許し下さい!)
  ショパンのこの作品や、ベートーヴェン自らがチェロ用に編曲したと伝えられる《ホルン・ソナタ》は、日本では滅多に演奏されないようですが、予想を上回るご好評を頂くことができました。今後も積極的にレパートリーを広げ、チェロの新たな可能性を模索して参ります。
  12月2日(火)は、自由が丘にある「サロン・ド・キャフェ・クレチュール」でのディナーコンサート。手を伸ばせば触れられるほどの至近距離に客席が置かれるため、度胸試しに最適で、ホールには無い迫力や臨場感が人気です。
  アンコールを弾き終えてようやく一安心、赤ワインで乾杯し、お客様に交じってゆったりとディナーを楽しみました。
帰国中何よりも嬉しかったのは、これまで「ウィーン便り」などに書き留めてきた様々な体験を、実際の音として聴き取って頂けたことでした。貴重なお時間を割いて足をお運び下さった皆様、どうもありがとうございました。また来春、どこかの会場でお目にかかれますのを楽しみにしています。

「シェ・モルチェ」でのミニ・コンサート ( 撮影 飯田敏晴 )
ビンゴの賞品になったウィーンのお土産


◆国立歌劇場とゲルストナー


 9月5日、ウィーン国立歌劇場の新シーズンは、アレヴィのオペラ《ユダヤの女》で幕を開けました。これはこの歌劇場の「顔」となっている素晴らしいプロダクションの一つで、当代切ってのエレアザール役、ニール・シコフがアリアを歌い終えると、建物全体を揺るがすような「ブラヴォー」の嵐が巻き起こりました。
  「国立歌劇場のオペラやバレエをたくさん観られること」がウィーンを留学先に選んだ理由の一つだったほどなので、今までどれだけの公演に通ったのかはもはや数え切れません。地下の練習室でレッスンを受ける機会が多かったことを考え合わせると、国立歌劇場は、(アパートを除いて)私がこの町で最も多く出入りした場所かも知れません!?
  1709席の座席、22席の車椅子席(及び付き添い席)に加え、567席もの立見席がしつらえられているお陰で、たった四、五百円で世界最高の総合芸術に触れることが可能です。モーツァルトのアリアを朗々と歌いながら工事現場で働く人に出会ったり、タクシーの運転手さんとオペラの話題で盛り上がったり。この町では、音楽という尽きせぬ宝物が万人に開かれているのです。
  第2次世界大戦中の大空襲で国立歌劇場が破壊された時のウィーンの人々の悲しみ、そしてその復興に傾けた情熱は、ほど近くの国立歌劇場博物館に留められています。ごく小さな博物館ですが、《薔薇の騎士》に出てくる銀の薔薇など、オペラ・ファンには興味深い様々な展示品が置かれています。


《ユダヤの女》のカーテンコール

「大理石の間」のビュッフェ.

リンク通りから見た国立歌劇場
 


  壮大な舞台に掻き立てられた興奮を抑えつつ、幕間に「大理石の間」へ足を運ぶと、大抵一人二人は知った顔に出会います。シャンデリアに飾られた優美な休憩所で、時には軽食やお菓子をつまみながら、友人たちと感動を分かち合います。
  ウィーンのお菓子は、私達日本人にはちょっと大き過ぎたり甘過ぎたりすることがありますが、ここで食べるチョコレートは絶妙の美味しさで、メランジェ(泡立てたミルク入りのコーヒー)ともとても良く合います。
  1869年の落成から今日に至るまで、この歌劇場のビュッフェは皇室御用達の「ゲルストナー」が受け持っており、これは実に、私企業と国営の機関との間で交わされたオーストリーで最も長い契約なのだそうです。
  耳だけでなく目をも舌をも楽しませてくれるウィーン国立歌劇場ですが、その最大の魅力は何と言っても、ウィーン・フィルの音色を心ゆくまで堪能できることでしょう。全ての楽器が歌声同様に――時にはそれ以上に――輝きを放つオーケストラ・ピットは、まるで音でできた宝石箱のようです!
  国立歌劇場管弦楽団を母体とするウィーン・フィルの特質を、楽団長のクレメンス・ヘルスベルク博士は次のように説明しています。
  「私達の成功の一因は、歌劇場のオーケストラ・ピットで弾くことによって、レパートリーに通じ、歌手たちと一緒に演奏することに慣れているために違いありません。歌手が歌うだけでなく演技をし、舞台の上で他の歌手たちに反応しなくてはならない……その意味するところを皆が知っています。そしてこの知識をコンサートのステージへ持ち込みます。私達は主声部と共存することに慣れており、ある時はそれがコンサートマスターであったり、またある時はファゴットであったりするわけです。このような観点から、コンサートとオペラの両方を演奏することが重要なのです。」
  幾度となく繰り返されたカーテンコールがとうとう止み、場内の明かりが消えたのも束の間、翌日には別の演目で再び幕が上がります。これから来年の6月30日までほぼ毎晩、それぞれに趣向を凝らした夢のような上演が続きます。(『百味』10月号 「ウィーン便りG」)

◆ハイドンの夢の食卓


  先日、ウィーンへ来て初めて引越しを経験しました。こちらには借家の壁にペンキを塗って、きれいにして返却する習慣があります。ローラーを買ってきて自分でやってしまう人が多く、友人にも簡単よと励まされたので、勇気を出して挑戦してみました!  
 全ての壁を塗り終えるのは一苦労でしたが、汚れの少ない天井などは部分的に塗っても元々の色にうまく溶け込むので、良いシステムだなと感心しました。古いものを壊してしまわず、何度も修復しながら大切に使う……伝統を重んじつつ決して色褪せない、ウィーンの音楽とどこか相通じるものを感じました。  
  町の中心部からは少し遠くなってしまったのですが、新居の前の通りからシェーンブルン宮殿が見えるので、ちょっと買い物に出るだけでも典雅な気分になっています。それからそうそう――本日の主役、ハイドンさんのお宅もご近所になりました。

ハイドンガッセに建つハイドン記念館
ハイドン記念館の中庭

  西駅近くの小路「ハイドンガッセ」に建つハイドン記念館は、中の一室が(以前お話しした)ブラームス記念室になっていて、私のお気に入りの場所の一つです。そして、若者向けのショッピングストリート「マリアヒルファー・シュトラッセ」をさらに進むと、教会を背にした素敵なハイドン像に出会います。
  長年エステルハージ候の楽長を務めたハイドンの作品には、「ジプシー・トリオ」と呼ばれるピアノ三重奏曲を始め、ハンガリー色を帯びたものが少なくありません。けれども、彼がエステルハーザ宮殿で書いた手紙を読んでみると、その心(胃袋?)は恋しいウィーンにあったことが分かります。
  「……旅に出てウィーンの美味しい食べ物が消え去ったため、3日間で20ポンドも痩せてしまいました。高価な牛肉の代わりに50歳の雌牛の肉一切れ、小さな団子の入ったラグーの代わりに老いた羊の肉と黄色いニンジン、ボヘミアのキジの代わりに革のように硬いロースト……(中略)『チョコレートをミルク入りでお飲みになりますか、それともミルク無しで?』『コーヒーはブラックで、それとも生クリームをお入れしましょうか?』『善良なハイドンさん、何をお持ち致しましょう、アイスクリームはバニラ、それともパイナップルがよろしいですか?』ここエステルハーザでは誰もこのように尋ねてくれないのです。……」
  念願叶ってウィーンに戻った晩年のハイドンは、先程ご案内した邸宅に腰を落ち着け、オラトリオ《天地創造》《四季》などの大作を生み出しました。夏の初め、ハイドンともゆかりの深いシュテファン大聖堂で、この《天地創造》を聴く機会がありました。
  ウィーンに来てから(ドイツ語のテキストが読めるようになったこともあって)以前よりも宗教音楽を聴くようになりましたが、素晴らしさに感動するだけでなく、こんなに「幸福な」気持ちに満たされたことは無かったような気がします。
  鳥たちやライオン、羊、昆虫の群までもがその誕生を祝福され、神の似姿をもつ人間が命を吹き込まれると、無宗教の私ですら、この世に生を受けたことへの感謝で胸が一杯になりました。
  最近の日本では、人の命が粗末にされていることが何よりも悲しく、憤りを覚えます。世界的に見れば何不自由の無い豊かな国で、なぜ大勢の自殺者が出、些細な動機の殺人事件が後を絶たないのでしょうか。
  没後200年にあたる来年のハイドン・イヤー、至る所に愛が溢れているかのような「パパ・ハイドン」の作品に触れ、どうかお一人でも多くの方が人生の尊さを思い出してくださいますように……   ( 百味』9月号に掲載された「ウィーン便りF」)

マリアヒルファー・シュトラッセのハイドン像
ミルク入りのホット・チョコレート

◆ヨハン・シュトラウス(父)のレストラン革命

  今春の帰国公演は無伴奏プログラムを中心に組んだため、ホールだけでなく(ピアノの無い)お寺の本堂やレストランなど、多様な空間でチェロを響かせることができました。レストランでは、演奏後にお食事となる通常のディナーコンサートに加え、ルクソール白金台での「コラボレーションディナー」という興味深い企画にも挑戦しました。
  オーナーシェフ、マリオ・フリットリさんのノリのいいトークを通訳する、アドリブでお話するなど臨機応変の対応が必要でしたが、お客様は大変熱心に耳を傾けて下さり、食と音楽が一体となった和やかな夕べにご満足下さったようでした。
  食べるように自然に……肩肘張らない音楽の在り方は、どこか「ウィーン的」にも感じられました。加藤雅彦著『ウィンナ・ワルツ』には次のような記述があります。
  「いい音楽を楽しみ、ダンスをして食事するというウィーン独特の生活文化は、二人のワルツの天才の出現で、さらに広く市民の間に根を下ろすことになった。音楽こそが客を集める最善の方法であった。レストラン経営者は、腕のいい楽団を必死になって探し回った。」
  「二人のワルツの天才」の一人、ヨハン・シュトラウス1世は、前回取り上げたヨハン・シュトラウス2世の父で、ウィンナ・ワルツの基礎を築いたことから「ワルツの父」と呼ばれています。
  最もよく知られた作品はワルツならぬ《ラデツキー行進曲》ですが、当時のウィーンでは行進曲も「ワルツ同様、快適で優雅で甘美な響きをもつ音楽」として市民に愛好されていたようです。
  (ウィーン・フィルのE. ザイフェルトさんは、この曲を共演した時、ゆっくりめのテンポを示そうと茶目っ気たっぷりに行進して見せてくれました。彼曰く、「ウィーン人は真っ直ぐに行進しない」のだそうです……!)
  音楽家や作曲家としてだけではなく、プロモーターとしても役所に届け出ていたというシュトラウス(父)は、進取の気性に富んだ人物でした。彼はまず、楽士の一人が小皿を持ってレストランのテーブルを回るそれまでの習慣に代えて、決まった入場料金を求めました。
  シュトラウス楽団の登場は、壮麗なイルミネーションやふんだんな花々で飾り付けられるようになりました。「ショー」的な効果も手伝って、人気はうなぎ上り。シュトラウス本人は馬車を駆り立て、毎晩少なくとも2つ以上の店に登場しなければならない有様でした。
  ワーグナーやベルリオーズが驚嘆するほど高い水準の音楽を、大勢の市民たちが生活の一部として享受していた――このことは、ウィーンを今なお「音楽の都」たらしめている一因に違いありません。
  日本でも社会全体に美しい音が鳴り響き、人々が心豊かに暮らせる日を夢見て、レストランでのコンサートは積極的に続けて行きたいと思っています(演奏者自身がお食事に加われる企画は特にいいですね♪)。
  グルメの皆様、その折には是非お出かけ下さり、舌と一緒にお耳を肥やしてみませんか? ( 百味7月号 「ウィーン便りE」 )

「二人のワルツの天才」シュトラウス(父)とランナーの像
いまだに馬車が道を行く優雅なウィーン

◆ヨハン・シュトラウスの甘い誘惑

 トッパンホールのニューイヤーコンサートに出演するため、大晦日にウィーンを発ち、私の2008年はなんと飛行機の中で始まりました!まず日本時間の新年を告げる機内放送があり、それから8時間経ったウィーン時間の新年には、シャンパンが振舞われ周りの乗客たちと乾杯しました。  
 ウィーンの街中では、ここですかさずヨハン・シュトラウス2世の《美しく青きドナウ》が流れ、皆グラスを片手にワルツを踊りだします。
  全世界へ中継されるウィーン・フィルのニューイヤーコンサートだけでなく、フォルクスオーパーの《こうもり》、楽友協会ホールでの「リング・アンサンブル」などなど、ウィーンでは年末年始を通じて、優雅なワルツの調べがお祭り気分を盛り上げてくれるのです。
  《ウィーンのボンボン》というワルツの題名そのままに、シュトラウスの音楽には、砂糖菓子のように甘く軽やかな魅力があります。そして、そのようなそこはかとない雰囲気は(他の作曲家についても言えることですが)楽譜通りに弾いて生まれるものではないので、演奏法をじかに伝承してきた本場でこそ、十二分に味わえるのかもしれません。
  私自身、ウィーンの音色に身を浸しているうちに、日本にいた頃とは比べ物にならないほどシュトラウスが大好きになってしまいました。  
  さらには、是非ともその美しい流れに乗って踊ってみたくなり、ウィンナ・ワルツを習いたい一心で(運動音痴なのですが、勇気を振り絞って)近所のダンス教室に通いました。
  ウィンナ・ワルツは、実際に踊ってみるとかなり回転が速く、パートナーにしっかり掴まっていないと吹き飛ばされそうに(!)なってしまいます。最初のうちは目が回るのにも閉口しましたが、難度の高い「左回転」を織り交ぜられるようになると、ようやく楽しんで踊れるようになりました。
  「1、2」を勢いよく踏み出し、「3」は足を上げずに床の上を滑らせる……という3拍子のステップを踏んでみると、ウィンナ・ワルツ独特のリズムの揺れを体で感じることができます。チェロを演奏するためにも、ダンスからは多くを学ぶことができました。
  真ん中分けの髪、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のような髭、焼きごてによる「立ち髪」風の髪型、はたまた黒く染めた「アデーレ髭」。ウィーン2区のヨハン・シュトラウス記念館では、ヴァラエティーに富む写真や肖像画が「外観を重要視し、洋服やひげの形などを常に流行に合わせた」ワルツ王の伊達男ぶりを伝えてくれます。
  女性にも相当もてたらしく、フランツ・エンドラーの著書『ヨハン・シュトラウス』によれば、ロシアに客演した彼は「謹厳な人々の目には何よりもまずプレイボーイだった」のだとか!
  「といってもそれは指揮台の上での話だが。上流階級の女性たち、周辺に別荘をもつ女性たち、一晩だけ鉄道でやってくる女性たち。彼女たちは指揮台に立つウィーン出身の情熱的な男を一目見んものと集まってきて、彼を間近に体験し、感激した。」
  最近になって知ったのですが、記念すべき21世紀の幕開けには、スペースシャトルの中でも《美しく青きドナウ》が流れたそうですね。きっと天上を彩る星々も、人間が紡ぎ出す妙なる音楽にうっとりと耳を傾けたに違いありません。
(東京有名百味会『百味』2008年3月号「ウィーン便りD」)

◇モーツァルトとハンスヴルスト


一年近く経った今でもそこここに“WIENMOZART2006”の余韻の残る街を歩いていると、ふっと昔の記憶が蘇ります。
私がモーツァルトの音楽に夢中になったのは、没後200年を迎えた1991年に、テレビで彼の名作オペラが立て続けに放映されたのがきっかけでした。
シュテファン大聖堂から中継された《レクイエム》も感動的で ―― あの時の印象が無ければ、私はもしかしたら、ウィーンへ留学しなかったかもしれません。
留学生活の初め、アパートの準備が整うまでの数日間は、(偶然知人に紹介してもらったのですが)モーツァルト広場近くの「ホテル・パパゲーノ」で過ごしました。
モーツァルトのオペラ《魔笛》に登場する鳥刺しパパゲーノの前身は、伝統的な道化「ハンスヴルスト」にあると言われています。「ヴルスト」とはドイツ語でソーセージのことで、ザルツブルク出身の豚殺しハンスヴルストは、滑稽な田舎者ぶりで観客の笑いを誘っていました。
幼い頃から家族に連れられて、こうした民衆劇を観ていたモーツァルトは、ハンスヴルストに共感し、自分と同一視するまでになりました。14歳の時には、ミラノから姉に宛てた手紙の署名に、いたずらっぽくこの名前を用いています。
また彼は、仮面舞踏会に行く時には、好んでハンスヴルストやハーレキン、カスペルルといった道化の仮面を着けました。あるミュンヘンの仮面舞踏会には、なんと小さな緑色の尖った帽子から、ソーセージの形をした「打ちべら」まで用意して、全身「ザルツブルクのハンスヴルスト」に扮して出かけたそうです!
ウィーンやザルツブルクでは、モーツァルトのあまり知られていないオペラを観る機会があります。今年の夏にはアン・デア・ヴィーン劇場で《ラ・フィンタ・センプリーチェ》が上演されました。
この作品は、12歳の神童が書いた初めてのオペラ・ブッファ(喜歌劇)なのですが、音楽の素晴らしさだけでなく、劇と音楽との見事な調和にも驚き呆れてしまいました。
子供のくせに、恋の駆け引きの機微を表現して人々を笑わせるなんて…!その背景には、すでに小さな体に染み込んでいた、豊かな観劇経験があったのですね。
モーツァルトの演奏には、たとえ器楽曲であっても、しばしばオペラのような「劇的な」表現を求められます。ある講習会では、《ピアノ三重奏 K.502》の中に美しいお姫様やハンサムな王子様、滑稽な人物といった「役柄」を見出し演じるように、というわくわくするようなご助言を頂いたこともありました。
パパゲーノやハンスヴルストと同じように、モーツァルトも明るいユーモアに溢れる人でした。この愛すべき大作曲家を記念して、モーツァルトクーゲルやモーツァルトトルテだけでなく、昨今ではありとあらゆる食料品に彼の名前が付けられています(私はとくに、甘みのあるリンゴ「モーツァルト」を気に入って食べています)。 けれども、最もモーツァルトにふさわしい食べ物は、ヴァイオリンをかたどった「モーツァルトヴルスト」かもしれませんね!(「東京有名百味会『百味』2007年 12月号  ウィーン便りC)
オペラ「魔笛」より



◇ほろ酔い加減のシューベルト


夏休みに入り、ウィーンを訪れていた家族と一緒に、ハンガリー旅行に行ってきました。「ドナウの真珠」とうたわれるブタペストの壮麗な夜景、軽快な足さばきの民族舞踊、レストランで出会った素晴らしい腕前のジプシー・ヴァイオリンなど、たくさんの忘れがたい思い出を作ることができました。
そして、世界に名高い貴腐ワイン「トカイ・アス−」の、心をとろかすような魅惑的な味わい…「歌曲王」と呼ばれるウィーンの大作曲家シューベルトは、ワインを飲むのが大好きで、とりわけハンガリー・ワインがお気に入りだったそうです。
その熱中ぶりは、歌曲《酒の歌》や《トカイ・ワイン讃》、合唱曲《ワインと愛》といった彼の作品から生き生きと伝わってきます。
シューベルトは街中の居酒屋だけでなく、ホイリゲ(その年の新酒を出すワイン酒場)で有名な、ウィーン郊外のグリンツィングにも頻繁に足を伸ばしました。

<ホイリゲの看板>

<街中で見かけたシュトゥルムの樽 >
私は残念ながら、ワイン一杯足らずで倒れてしまったことがあるくらいお酒に弱いのですが、そんな人間にとってすら、優しい自然に囲まれたホイリゲで過ごすひとときは格別です。
セルフサービスの素朴なお料理も美味しいですし、ウィーンの友人たちのお薦め、季節の果物入りのお酒「ボーレ」なら、私でもあまり心配せずに飲むことができます。
秋の一時期には、ワインになる前の半発酵状態の「シュトゥルム」や、もっと前の段階の葡萄ジュース「モースト」を味わうことができます。(ある時はさらに遡って…ホイリゲのご主人が、店に生っていたみずみずしい葡萄を摘み取って食べさせてくださったこともありました!)
「田園の散歩、何本かのブドウ酒か一杯のパンチを前に、よき友人と過ごす夕べ。このブドウ酒は、酔っぱらうためのものではなく、陽気で活気があって、才能のある、やさしい、いく人かの友人と過ごすひと時の楽しさを増すためのものである。そのブドウ酒を前にして、あたたかい友情を感じる、というごく単純な楽しみ、シューベルトにとっては、それだけで十分だったのだ。」
マルセル・ブリヨンの著書『ウィーンはなやかな日々』は、昔も今も変わらぬこの街の空気をうまく捉えています。また別の本では、友人たちと一緒にウィーンのホイリゲで寛いでいたシューベルトが、コンサートに出演する予定があったにもかかわらず、平気でその場に座り続けていたという逸話を読んだことがあります。
チェリストとしてそこまで作曲家を見習う(?)のはどうかとしても、ウィーン風の軽やかな遊び心は、シューベルトの演奏に欠かすことのできない要素です 。
楽友協会の一室で《アルペッジョーネ・ソナタ》を弾いた、ウィーンで初めてのレッスンを思い出します。
ともするとテクニックに囚われかねない難曲に、イーベラー先生がくださったご助言は「シューベルトは歌の作曲家――全てを歌わなくては」でした。

<中央墓地にあるシューベルトのお墓>
秋の帰国リサイタルはこのソナタをメインにプログラムを組み、ウィーンの森で醸造した私なりの歌心を、お客様にお届けしたいと願っています。ウィーンを拠点とする名ピアニスト梯 剛之さん、ウィーン・フィルを代表するヴァイオリ二スト E ・ザイフェルトさんらと共演する室内楽コンサートでは、シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」を演奏します。
友人たちとの音の対話を楽しみに、準備に励んでまいります。
(「東京有名百味会『百味』2007年10月号 ウィーン便りB)

共演者と共に  (撮影 飯田敏晴)
( シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」 録音風景   10月8日  アッツェンブルック にて)

◇ベートーヴェンのコーヒー・ブレイク

 帰国公演を無事に終えてウィーンへ戻り、ほっと一息。音楽の都としてだけでなく、「カフェの都」としても知られているほど、ウィーンには数多くの魅力的なカフェがあります。
 ザッハートルテの生みの親「ザッハー」、ハプスブルク家御用達の「デーメル」、モーツァルトトルテが名物の「モーツァルト」、それに、「ツェントラル」、「ゲルストナー」、「ラントマン」、「シルク」……主だったものを挙げても切りがなく、小さな町の中心部で友人と会うにも「今日はどこにしようか?」と迷ってしまいます。
 その次に悩むのは、ケーキ選び。世界一有名なチョコレート・ケーキと言われる「ザッハートルテ」、薄いパイ皮にリンゴを包んで焼いた「アプフェルシュトゥルーデル」を始め、それぞれの店に伝統の味が受け継がれています。
 コーヒーにも様々な種類がありますが、ウィーンで一番人気があるのは「メランジェ」(泡立てたミルク入り)、日本で言う「ウィンナー・コーヒー」に当たるのは「アインシュペンナー」(生クリーム入りで、グラスに入って出てくる)のようです。
 ウィーン人は大変コーヒー好きで、平均して一日に3杯くらい飲んでいると聞いたことがあります。音楽史上の偉大なウィーンっ子、ベートーヴェンもコーヒーに独自のこだわりを持ち、カップ一杯につき60粒きっかりのコーヒー豆を、いちいち数えて挽いていたのだとか……!
 「 “ 真のウィーンっ子 ” には、カフェに行く種々雑多な理由がある。コーヒーを飲むため、新聞を読むため、仕事で、または個人的に人と会うため、思索にふける、または単に瞑想するため、チェス・ビリヤード・(トランプの)ブリッジといったゲームをするため、本を書くため――」あるオーストリーの新聞記事にはこう書かれていました。ウィーンのカフェは飲食店であるにとどまらず、「ウィーン独特のライフスタイル」を象徴する場所なのです。
 興味深いことに、上記の引用文は次のように締めくくられています。「――手短に言えば、普段よりも自覚を持って生きるために。」
 私達日本人の感覚としては、コーヒーを手にするのはどちらかと言うと、「仕事の合間の休憩時間」というイメージがありませんか?
 カフェでの何気ないひととき、そしてそこから生まれる「ゲミュートリッヒカイト」(居心地のよさ)、そうしたものに人生の意義を見出すことのできる大らかな土壌が、この町に彩り豊かな音楽文化を花開かせたのかもしれません。(実際ベートーヴェンの時代には、まだホールが不足していたためにカフェでコンサートが開かれることも多く、カフェと音楽とは直接結びついていました。)
 ベートーヴェンの伝記作家シンドラーは、「コーヒーは……彼にとって無くてはならない食料品のようだった」と述べています。「ツム・タローニ」や「ミラーニ」といった当時のカフェに、足繁く通っていたベートーヴェン。
 耳の病気が悪化していく不幸に苦しめられながらも、彼は日々をいとおしむウィーンっ子らしさを持ち続けていたのではないでしょうか?
 歴史あるウィーンのカフェは、日本で知ることのできなかった大作曲家の素顔へと、想いをいざなってくれます。この素敵な空間を立ち去るのは名残惜しいのですが、そろそろアパートへ帰って、チェロを練習しなくてはいけませんね……「ツァーレン・ビッテ(お勘定をお願いします)!」
(東京有名百味会『百味』2007年8月号に寄せた「ウィーン便りA」)

◇ブラームスの舌鼓

 ウィーンでの毎日の中で最もわくわくすることの一つは、日本ではおぼろげな輪郭しか持たなかった歴史上の大作曲家たちの息吹を感じられる瞬間です。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス……「音楽の都」ウィーンと重要な関わりを持った作曲家は挙げれば切りがありません。
 私が今取り組んでいるブラームスもその一人で、チェロを弾いている時に限らず様々な発見があるので、音楽作品と、と言うよりむしろ、魅力的な人物との付き合いを深めていく楽しさを味わっています。
 ブラームス記念室に展示されたスナップ写真の中の生き生きとした姿に驚き、中央墓地で安らかな眠りに祈りを捧げ……今でもあちらこちらで、この町を拠点とした偉大な作曲家に出会うことができます。
 ブラームスが避暑に訪れたアウスゼー地方では、ピアノを弾く等身大のブラームス人形にも対面しましたっけ(このゆかりの地の音楽週間で第2番のソナタを演奏させて頂いたのは、忘れられない思い出です)。そしてウィーン楽友協会の小ホール「ブラームス・ザール」で、客席の傍らに飾られた胸像を眺めながら彼の作品を聴く時には、まるでブラームス自身がそこで耳を傾けているかのような厳粛な気持ちに満たされます。
 ウィーンで暮らすブラームスは、かなりの食い道楽でした。親友に宛てた手紙の中で、この町を離れたくない理由の一つとして、「美味しいレストランの数々」を挙げている程です(ちなみに故郷ハンブルクのことは、別の手紙でウィーンと対比させ「オイスター・ロブスター共和国」呼ばわりしています)!
 「グーラシュ(ハンガリー風シチュー)は絶品だし、トプフェンパラチンケン(クリームチーズ入りクレープ)も最高、ビールもワインも良い」と居酒屋の食事に舌鼓を打つブラームスの姿は、現代の陽気なウィーンっ子たちと何ら変わるところがありません。ウィーンでは、音楽だけでなく食生活を通しても、ブラームスを追体験することができるのです。
 「もっと演奏を楽しまなくちゃ。音符の一つ一つには、家のように奥行きがあるからこそ、音楽に詳しくない人でも参加できるんだ。聴衆を前にすると、音楽を楽しめないって、一体どういうことなんだい?」と、ある指揮者を批判したブラームスの音楽観は、食べ物の好みと同様にウィーン的です。
 毎日のようにオペラに、コンサートに、演劇に、気持ちの良い野外レストランでの食事にと飛び回り、「楽しむ」こと全てに貪欲なウィーンの人々を見ていると、彼らが時代を超えて音楽を支え続けてきた理由は、何よりもまず、それが理屈抜きに楽しいものだからではないだろうか、と思わされます。 
  作品に対する真面目さばかりを強調されてしまいがちなブラームスも、一方では居酒屋に腰を落ち着けてジプシーたちの演奏を愛で、音楽を、そして人生を謳歌していたのでした。
 日本で「クラシックは敷居が高い」と感じる方が多いのは、遠い国の文化を輸入する過程で、風土や言語、人々の気質などと結びついた、より親しみやすい部分が抜け落ちてしまったためではないかと思います。ですから帰国公演をする度に、だんだんとクラシックに馴染みのないお客様からの共感が増してくるのは、大変嬉しいことです。
 今回の帰国時には、チェロと一緒に是非、「人間としてのブラームス」も飛行機に乗せて帰りたいものだと願っています。長年の大食で育った彼の立派な太鼓腹が、エコノミーの座席に入りきるかどうかが、少し心配ではありますが――。
(東京有名百味会『百味』2007年5月号に寄せた「ウィーン便り」)